笑いと忘却の書 ミラン・クンデラ p.270
『愛とはたえざる問いのことだからだ。そう、私はそれほどよい愛の定義を知らない。』
上京してからずっと思っている。
上京してから出会った人は、つまり大学生以降に出会った人たちは、出会った時にはすでに人格がかなり完成された状態でいる。
高校までは、幼小中高と付き合いの長い友達が多かったし、高校で出会った子でも、出身中学を聞けばなんとなくそこの雰囲気が分かった。何より皆同じ地域で育っていて、めちゃくちゃなお金持ちやめちゃくちゃな貧乏みたいな人もいなかった(多少の差はあったのかもしれないけれど)。
だから、『相手のことが何も分からない』という感覚を持ったことがなかった。
人格の大事なところが形成されるのが「思春期」にあたるのだとすると、私の感覚では中高の6年間がその時期にあたるように思うので、高校で出会ってもまだ人格が完成しきってはいないというのももちろん大きかったはず。
上京したらそれが一変。
みんなが『完成形』で私の前に現れて、いったいどんな人生を経て今のこの人になっているのかがほとんど分からない。
話を聞くことはできても、私の知らない土地、私の知らない人たちのことを、本当に分かることはできない。その人と同じ経験、思いを共有することは絶対にできない。
そのことに、私はずっと漠然とした不安を感じていた。仲良くなれても、その人の人格の一番大事な経験には、私は触れることができない。
この不安を、心を許した何人かの友達には話したことがあると思う。でも、あまり共感してもらえることはなくて、ずっともやもやしていた。
そして先日、この春仲良くなった友達にこの不安の話をした。
おしゃれなバーのカウンターで、なんでこんな話をしたんだろう。お酒を飲みすぎて、少しセンチメンタルな気持ちになっていたのかもしれない。
友
「分からないところを、少しずつ引き出して、知っていくのが面白いんじゃん。笑いと忘却の書っていう本の中で、クンデラも『愛とはたえざる問いのことだ』って言っていたよ。」
すごく良い答えだった。たえざる問いかけ。
それで本を読んだ。
時代も国も違うひとの小説が、今の私の心にスッと刺さるという事実にも驚いてしまった。名作が名作であるということ自体が、すごい。
人間ってこんなに普遍的な気持ちがあるものなのか。