履歴書のすきま (「これから泳ぎにいきませんか」 p.68)
人生におこえるイベントというものがある。就職とか結婚とか出産とか海外に住むとか。それらに関しては、はっきりとした形で何らかの痕跡が残ることが多い。…(中略)
そうした痕跡と痕跡の隙間をさらに補完するように、写真やビデオや音楽や一緒に参加した人々の記憶がある。…(中略)
では、それで人生のすべてがフォローできるものなのだろうか。そうではない、と思う。
私たちの生はイベントとは呼べない小さな日常の連続であり、そこには写真にもビデオにも捉えることができず、共有の記憶から洩れてしまうような「何か」が、大量に充ちているんじゃないか。
穂村弘「これから泳ぎにいきませんか」 p.68
隙間から零れ落ちた「何か」
(今日マチ子『センネン画報』についての書評)
ひとの人生は、履歴書には表れない。
むしろ履歴書に載るような選択をするまでの、そのすきまに人生が表れる。
さらに、日記にも記憶にも留まらないような些細な出来事の積み重ねが、結局は人生のほとんどを占めている。
積み重なる、その些細な出来事の隅々に、そのひとの人生が、生活が、価値観が、滲む。
「点」としてある出来事だけが記録されて、その間をつなぐ人生は、なんとなく流れて消えてしまう。
私が死んだら、私を形づくったそれはどこにも残らず、ただ消えてしまう。
穂村さんは本の中でそれを「『生きてる』の主成分」と書いている。
私の、主成分。
私の主成分が、ただふっと消えてしまうのは恐ろしい。
私が毎日ひたすらに長い日記をつけてしまう癖は、この恐ろしさから来ているのだと思う。
できるだけ、できるだけ、私の主成分を取っておきたくて。
思い出としての機能を持たない日重ねて少しずつ年をとる
(初谷むい spring. OS)
この短歌を読んだ時も、同じ気持ちになった。
思い出としても機能を持たない、ただの時間。
ただの時間が過ぎただけの日。
そんな日を積み重ねて人生の多くは過ぎてしまう。
いやだいやだ。
恐ろしい。
人生初めてなのに、毎日なんとか暮らして、日々色んなこと感じたり思ったりしてるのに。
消えないでほしい。
時々撮る写真と、毎日疲れるほど書き綴る日記なんかで対抗できるものなのかは分からないけれど、できるだけ私を残したい。
好きなひとたちの人生、彼らの主成分だって、たくさん見つけておきたい。
取っておきたい。
友達が歩きながら目に留めたものが独特だったとか、
ふとした一言のの言葉のえらび方が素敵だったとか。
あまりに些細で、あまりに大事だ。