笑いと忘却の書 ミラン・クンデラ p.201
『愛の絶対性とは事実上、絶対的な同一性への願望のことである。』
『つまり、私たちが愛している女性が、私たちと同じようにゆっくり泳ぎ、その女性が思い出して幸福になるような、その女性だけに所属する過去などあってはならないということだ。しかし、(娘が自分の過去を思い出して幸福になるとか、速く泳ぐといったように)絶対的な同一性という幻想が打ち砕かれると、愛は大きな煩悶の源になる。』
BUMP OF CHICKEN「宇宙飛行士の手紙」を思い出した。
『どうやったって無理なんだ 知らない記憶を知ることは
言葉で伝えても 伝わったのは言葉だけ
出来るだけ離れないで いたいと願うのは
出会う前の君に僕は 絶対出会えないから』
(クンデラの後半の、同一性が砕かれた場合の煩悶に関してはあまり共感していないけれど、)
大事な経験を出来る限り共有したい、言葉だけでなく、一緒に経験して感覚を共有したいという意味で、『絶対的な同一性への願望』はすごく分かると思った。
生活すること
生きているだけで褒めてほしい、とは言わないけれど
生活していることは褒めてほしいと思う。
朝起きたとき、
わくわくするほど空が晴れ渡っていて、はやく布団を干して、太陽の匂いがするフカフカの布団に飛び込みたいと思う日もあれば、
ひたすら遠くにずんずん歩いて、知らない土地に着きたいと思う日もあれば、
何もしたくない、何も考えたくない、じっと動かないでいたい日もあるけど
スヌーズの合間の5分間で いろんな気持ちをギュッと押しやって
起きて、顔を洗って、身支度をして、すこし朝ごはんを食べて、ゴミを捨てて、昨日と同じ時間に家を出て、昨日と同じ時間に会社のデスクに座っていること。
飛び上がりそうに嬉しいときも、世界の終わりみたいに哀しいときも、疲れ果てて何も考えられないときも、特に何もないときも、なんだかんだおなかは減るから、
スーパーに行って何か買って、料理するなりあっためるなりして、お皿とお箸を並べて、盛り付けて、ごはんを食べる。食べ終わったら、洗い物をする。
疲れて洗い物ができないと、次の日も汚れた食器は机の上に置かれたままになってしまう。
夜はお風呂に入って、髪を乾かして、あまり遅すぎない時間に寝る。排水溝の髪の毛をティッシュで取って捨てる。
週に一度は家の掃除もする。掃除機をかけて、トイレを磨いて、お風呂を磨いて、鏡を拭く。生活しているだけで、瞬く間に汚れは溜まってしまうから。
生活すること、毎日一つ一つこなすこと。
思ったより大変で驚く。
道ゆく人たちは、涼しい顔で生活をこなしているように見えて、また驚く。
がんばって生活してるんだぜ。
がんばってるから、誰か褒めて。
わるいおとこ
友達として仲が良いが、話をきく限りだと恋愛面ではやり手というか、奔放な男友達がいる。
私
「わるい男だね。」
友
「さびしい男だよ。」
なんだか印象に残った。
2017/09/05 むりやりにこにこ(もしくは、価値観の滲むところ)
時々迷々、に響きが似てる。
価値観が合うことを、私は今まで
『それは面白いぞ、最高に楽しいぞって思ったり、それはイヤだなあ、興味がわかないなあって思ったりするポイントが同じこと』
って思っていて、そしてそれは今もそうなのだけれど、
そのひとが選ぶ話題と、話のことばえらびにも、すごくその人の価値観が滲むよなあと
今日は感じた。
ある程度近しい人であれば、最近あったことを話したりは普通にすると思うけれど、その時に、最近の日々の生活で自分が経験した無数の出来事の中から何を選びとって話すか、にはかなり価値観が滲む。
そこで選ぶことは、自分にとって印象深かったことだったり、その相手に伝えたいなあと思ったことだったりするわけで、「どんな出来事に対して心が動くひとなのか」が顕著に表れるから。
それに、同じ出来事でもそれを表現する語彙はひとによって違うはずで、そのひとが持つ語彙にはすごく、そのひとの育ち方や普段触れているものが滲んでいると思う。
だから私は、嫌なことよりも嬉しいことをたくさん見つけて話してくれるひとが好きだし、相手が話してくれた「心が動いたポイント」に自分も心が動くと嬉しくなるし、言葉の選び方が光るひとが好きなんだなあ。
逆に、悪口や愚痴をたくさん聞いていると、しょんぼりして元気がなくなってくる。
今日はずっと価値観のずれを感じてしょんぼりしながら、無理やりにこにこしてしまった夜だったことだ。
嬉しいことたくさんみつけよ。
最近の、良いこと言うじゃん2
私
「好きな人と付き合っていたとしても、週に1回くらいはちょっとチクッと思うことがあったり、これでいいのかなって悩んじゃうことってあるじゃない?
もし結婚して60年一緒に生きるとなったら、週に1回でも年におよそ50回、60年で3000回はチクッって悩むんだよね。でも、そのうちそれを相手と話し合うのって5回くらいじゃない?2995回は自分の中だけでもやもやして、『考えるのやめよう、早く寝よ。』って思って過ぎていくのかな?
そう思ったら、急に結婚ってすごく難しい気がしてきちゃったんだよ。」
友
「そうかもしれないね。でも、それなら週に6日はきっと楽しいよ。そしたら、楽しいことはそういう日の6倍、1万8000回やってくるね。」
最近の、良いこと言うじゃん
私
「このままじゃ、何にもなれずに時間だけ過ぎてしまいそうで怖い。でも、今特別何がしたいのかも分かんない。どうしたらいいんだろう?」
母
「英語の勉強しなよ。そうすればだいたい世界のどこにでも行ける。あとは、いっぱい好きな本を読んで好きな音楽を聴けばいいよ。自分を耕して、やりたいことが見つかった時のために準備しておけばいい。」
笑いと忘却の書 ミラン・クンデラ p.270
『愛とはたえざる問いのことだからだ。そう、私はそれほどよい愛の定義を知らない。』
上京してからずっと思っている。
上京してから出会った人は、つまり大学生以降に出会った人たちは、出会った時にはすでに人格がかなり完成された状態でいる。
高校までは、幼小中高と付き合いの長い友達が多かったし、高校で出会った子でも、出身中学を聞けばなんとなくそこの雰囲気が分かった。何より皆同じ地域で育っていて、めちゃくちゃなお金持ちやめちゃくちゃな貧乏みたいな人もいなかった(多少の差はあったのかもしれないけれど)。
だから、『相手のことが何も分からない』という感覚を持ったことがなかった。
人格の大事なところが形成されるのが「思春期」にあたるのだとすると、私の感覚では中高の6年間がその時期にあたるように思うので、高校で出会ってもまだ人格が完成しきってはいないというのももちろん大きかったはず。
上京したらそれが一変。
みんなが『完成形』で私の前に現れて、いったいどんな人生を経て今のこの人になっているのかがほとんど分からない。
話を聞くことはできても、私の知らない土地、私の知らない人たちのことを、本当に分かることはできない。その人と同じ経験、思いを共有することは絶対にできない。
そのことに、私はずっと漠然とした不安を感じていた。仲良くなれても、その人の人格の一番大事な経験には、私は触れることができない。
この不安を、心を許した何人かの友達には話したことがあると思う。でも、あまり共感してもらえることはなくて、ずっともやもやしていた。
そして先日、この春仲良くなった友達にこの不安の話をした。
おしゃれなバーのカウンターで、なんでこんな話をしたんだろう。お酒を飲みすぎて、少しセンチメンタルな気持ちになっていたのかもしれない。
友
「分からないところを、少しずつ引き出して、知っていくのが面白いんじゃん。笑いと忘却の書っていう本の中で、クンデラも『愛とはたえざる問いのことだ』って言っていたよ。」
すごく良い答えだった。たえざる問いかけ。
それで本を読んだ。
時代も国も違うひとの小説が、今の私の心にスッと刺さるという事実にも驚いてしまった。名作が名作であるということ自体が、すごい。
人間ってこんなに普遍的な気持ちがあるものなのか。